世はすっかり Twitter がコミュニケーションインフラとして定着し、さながらひとつの巨大な日記帳のような様相を呈している。ということで、ついったに関するひとりごと。Twittersphere には、「毒を吐かせてもらう」なんて言い方であたかも自分ではない何かの代弁を強いられているかのように装い軽く自己正当化を図りつつ、あれこれとネガティブなことをひたすらつぶやく人たちがいる。
私の方針として、比較的近しいひとならばまずは1度少しネガティブな発言を控えるようにお願いしてみることにしている。それでもネガティブなポストを続ける方は、フォローを外している。そういう人々は、世の中の誰かを幸せにするより自分の悲劇ぶりを喧伝するほうが大事そうだが、残念ながら私の人生ポリシーとはまったく折り合いそうもないからだ。
この判断基準は単純明快で、「死にたい」とか「私はどうせ**だ」「**は**すればいい」といった発言を私の観測範囲内であえて繰り返しているかどうかだ。彼らは確信犯的にこれを行っているが、その目的は個々によって違うかもしれない。ひとことにまとめると「ヤンデレ気質」とでもいうのか、人生に対する自信の無さの表出なのだと思う。ただしそれを改善するために費やすべき労力を、他の誰かを通して社会に復讐するために用いている。つまるところ深層では他者に甘えたいのだろうが、こちらとしてはそんなかたちで甘えられても対応に困るのだ。
こういったコミュニケーションツールは、誰かをほんのちょっとでも幸せにできる可能性がある、重要かつ希少なツールだ(なにせアテンションは今やとても貴重なのだ、しかも低コストで)。ただし包丁と同じで、誰かを幸せにもするし不幸にもする、使い方次第というわけだ。
私としては、せっかく先人が大変な苦労をして築いてきた現代技術の恩恵である高度な道具を、確信犯的にネガティブポストを繰り返すために使うなどというのは、極論すれば人類社会に対する冒涜だと思っている。これだけの高度な社会インフラを構築するに至るまでに費やされてきた膨大な労力とそこに繋がっていた数多の人生たちは、将来の世代が幸せになるようにという切なる祈りそのものだ。
半公共空間に発展性のないネガティブな感情や言葉を意図的に投げ捨て続ける行為は、極端に言えば反社会的行為であり、良心や愛・謙虚さの敵である、ゆえにこれを大いに嫌悪する。私はたいしたことはできないけれども、それでもささやかながら誰かが楽しい人生を送る手助けができればと常々考えている。私は、自分と大切な人たちを守るために、人の心を無意識にゆっくり腐らせていく言霊たちを自分の生活圏から排除する義務がある、とまで思っている、大げさではなく。
そもそも情報をあまり詰め込めない Twitter という舞台では、いささか逆説的だが1つの単語が他のコミュニケーションツールより「重い」。つまり、それだけ正負に関わらず言葉の持つベクトルが強調される傾向にあるわけだ。加えて、他のメディアと比べても、同様の語彙(言い換えなど)への接触回数も必然的に多くなりがちで、ベクトルの方向に関わらずサブリミナル的な増幅効果を持つ。ゆえに、周囲に向けられた負の言葉は、長期的には人間関係を蝕む遅効性の毒となり得る。心理学の本を1つでも開けば、人間がいかに周囲、また直前の言葉によって行動が左右されるかについて詳細に書かれている、ここで述べるまでもなく。
特に自己憐憫に関する負の発言には、一片の発展性もない。改善できることは議論可能であるはずだから半歩づつでも努力すべきだろうし(それが知性というものだ)、そうでない事項ならあきらめて他に目を向けるべきだろう(雨が降ることの是非を論じるのは楽しいが発展性はない)。言葉が意識に与える影響を、私は過小評価しない。負の言葉は、自分に向けられていなくとも存在だけで自己達成予言を飼い慣らす妨げになる。格言にもあるように「言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になる」、そしてその積み重ねが人生なのだから。
よく言われるように「魅力的なひとは、常に明るい」のだ。かくありたいと思っているし、とても僭越ではあるけれども、誰かが少しでもそうなる手助けができるようになりたいものだ。
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